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ムエタイの判定でパンチのポイントが極端に低いのはなぜ? 一般の格闘技ファンのための100の大事なことがら その12

 試合形式が現代のものに定着する以前の伝統スタイルのムエタイは、拳に麻ひもを巻いただけのベアナックルでの戦いでした。

 以前にも書いたとおり、ベアナックルのパンチではKOがなかなか出ません。そこで、19世紀の後半からボクシングではパンチ力増幅器としてのグローブを採用しましたが、ムエタイではパンチのほかにヒジ打ち、蹴り、組み技など多彩な技があり、ベアナックルでも決着が付きやすかったため、パンチ力増幅のためのグローブの必要はありませんでした。

 しかし、20世紀にリングの導入がおこなわれたのと同時にムエタイでもグローブが採用されました。これは、ベアナックルで殴り合った際の外傷の激しさを軽減するためだったと思われます。

 そのころのムエタイは現代のスポーツムエタイとはことなり、まだ武術や武道としての面影が色濃く残っていたので、判定の基準は相手により多くのダメージを与えることでした。つまり、現在のキックボクシングと同じように、パンチでの加撃もキックでの加撃も同じように採点されていたということです。

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 その後、タイが経済的に成長し、人々に生活の余裕が出来るにつれて、ムエタイ観戦は人々の娯楽として欠かせないものとなっていきます。そして、しだいに人気選手はファイトマネーで生活が出来るようになり、プロムエタイ選手という職業が生まれました。


 この環境の変化により、選手たちは、武術としての理想を見せるというよりも、仕事として「勝てばいい」「たくさん試合をこなせればいい」というファイトをするようになり、本来のムエタイの形から離れていったようです。おそらく、この頃の試合はパンチとローキックだけの打撃戦が多かったことでしょう。パンチとローキックが一番楽で確実な方法だからです。

 パンチとローキックだけでも相手を倒せるならそれでいいじゃないか、武術の理想とかよりも倒すことが大事だろう、という意見もあるでしょうけれど、そのファイトスタイルは、パンチの威力増幅器としてのグローブを着けているからこそ出来るもので、本来のムエタイの形からは遠いものなのです。

 また、パンチ中心のスタイルになってからグローブ効果によって選手の死亡が増えました。グローブのパンチは、一発KOのような場合はそうでもありませんが、連続的にたくさん受けすぎると脳に深刻なダメージを与えるのです。そのため、70年代のある時期には毎月どこかの会場で選手が一人亡くなっているような状態だったと言われます。

 「パンチばかりで勝負すると相手が死ぬ」ということが明らかになってくると、選手たちはキックやヒザ蹴りを使うスタイルに変えようとしますが、その戦い方ではパンチばかりを打って来る相手に判定上は不利です。キックはパンチよりも体力を使うし、パンチよりもたくさんは打てないからです。

 そこでジャッジは同じ1回の攻撃であっても、パンチよりもキックのほうに高得点をつけ、蹴らない選手と蹴る選手のポイントの有利不利を調整したのです。これが新しい判定の基準となり、しだいに「パンチはほとんどポイントにならない」「パンチはダウンを取らない限りはゼロ査定」という現代ムエタイのジャッジとして定着しました。

 さらに、ムエタイは技術面でもレフリングの面でもグローブパンチにうまく対応していきました。具体的には、パンチのガードから首相撲に持ち込む技術が進化しました。また、いったん首相撲になるとレフリーがなかなかブレイクをかけなくなりました。このふたつによって、ムエタイでは連続パンチ攻撃がかなり難しくなったのです。

 ムエタイは、いくら危険であってもパンチを禁止にはしませんでした。打ちたければボディーでも顔面でもいくら打ってもかまいません。

 禁止にはしないけれども、ジャッジはパンチにポイントを入れません。この「倒せない限りパンチはほとんど0ポイント」という対処法はムエタイの偉大な発明です。それが顔面パンチを禁止にしてしまったほかのいくつかの格闘技との決定的な違いです。

 この裁定基準は一見パンチャーに対する死刑宣告のように見えるかもしれませんが、そうではありません。打つだけではノーポイントでもダウンをとればポイント獲得ですし、最終的にはKOしてしまえば文句無しの勝ちなのですから。生半可なパンチャーでは勝てないけれども、本物のパンチャーなら充分勝てる可能性はあるのです。実際、パンチで決まる試合はいくらでもあります。ビッグマッチでも、地方の大会でも、テレビマッチでもパンチでのKOは珍しくありません。

 個人的な感想としては、現代のムエタイはパンチでのKOとヒジやキックでのKOが程よいくらいのバランスが保たれており、とても良い状態だと思います。

 今後、技術や戦略の変化によってこのバランスが崩れることもあるかもしれませんが、その時はその時でまたムエタイは自己調節機能を働かせて新しい形に変わっていくでしょう。

 ともかく、現代のムエタイは、武術本来の戦闘力と、スポーツとしてのゲーム性、そしてある程度の安全性が確立している、非常に優れた格闘技だと言えるでしょう。

 リング内でのことだけではなく、ジャッジの基準などの側面までも含めて、さすがタイの国技と言われるだけの英知の結晶がムエタイなのです。

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コメント

  1. 名無し より:

    ギモンだったのが分かって少しハッキリした。

  2. 久しぶりの匿名 より:

    私もムエタイの判定基準については、外国人には理解不可能なほど複雑怪奇みたいな説明しかきいた事がなかったので白眉でした。ありがとうございます。しかしそうなると藤原敏男選手は、その基準変更の過渡期に活躍していたことになるんですね…。

  3. queens of the ring より:

    >名無しさん、久しぶりの匿名さん コメントありがとうございます。
    70年代の藤原敏男選手の時代はまさにそういう時代だったでしょうね。かなり今とは違うと思います。80年代のサーマート・パヤクァルン選手も、自分のころはもっと倒し合いだった、今は首相撲のポイントが大き過ぎる、などと発言していますので、ムエタイはずうっと変わり続けているんだと思います。実戦性と安全性の両立という、むずかしい問題があるので、その変化にはいろんな御意見があるでしょう。

  4. 通りすがりの柔術家 より:

    こちらの記事は目から鱗の素晴らしい記事ですね。
    ムエタイの歴史からポイントのシステムのその理由まで実にわかりやすく書かれてます。格闘技メディアの人や関わる人は全員読むべきだと思いました。
    今のK1はムエタイの歴史の流れに逆行してることがよくわかりますね。金儲け主義のプロモーターが作ったルール。パンチでの派手なKOを見せたいためのルールは選手の安全性なんてまるで考えてません。
    多くの選手がパンチドランカー症状があると聞きます。K1の選手は亡くなるのも早いです。
    今の若い選手が心配です。

  5. queens of the ring より:

    >通りすがりの柔術家さん コメントありがとうございます。こんな記事でもよろこんでいただけたら嬉しいです。
     タイもアジアのほかの国と同じく「本音と建て前」がありますから、表では「ダメージで採点します」といいながらも、本当はいろんな事情で別の採点方式になっているわけで、そのへんを意識すると話のつじつまが合ってくるんですよね。
     K1さんに関しては、たしかにパンチの比重が高いですね。それでもボクシングに比べればまだ安全なはずですが、ドランカー症状の選手が多発しているとすれば練習方法の問題も考えられるでしょうか。
     練習でも試合でも打たれたらダメージは同じですから。ヘッドギア付けても脳が揺れるのは止められません。
     打ち合いを見せればお客にうける、という考え方を変えない限り、選手のダメージ問題は小さくならないと思います。

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